雪国・十日町から ちからのブログ

豪雪地に暮らす思いとその自然について綴ります

「奥の細道」を訪ねて・・市振・親不知・糸魚川・能生

 昨日と一昨日の2日間、芭蕉奥の細道の旅で歩いた市振・親不知・糸魚川・能生に友人と二人で行ってきました。

 芭蕉は元禄2(1689)年3月27日(新暦5月16日)に江戸深川から奥の細道の旅に出発し、奥州の歌枕を巡り、岐阜の大垣に行く途次、新潟県を15泊16日で通っています。

 6月27日(新暦8月12日)・・・山形県・温海~中村〔現・北中〕泊
 6月28日(新暦8月13日)・・・中村~村上 泊
 6月29日(新暦8月14日)・・・村上(逗留)
 7月  1日(新暦8月15日)・・・村上~築地 泊
 7月  2日(新暦8月16日)・・・築地~新潟 泊
 7月  3日(新暦8月17日)・・・新潟~弥彦 泊
 7月  4日(新暦8月18日)・・・弥彦~出雲崎
 7月  5日(新暦8月19日)・・・出雲崎~鉢崎 泊
 7月  6日(新暦8月20日)・・・鉢崎~今町〔直江津〕泊
 7月  7日(新暦8月21日)・・・今町(逗留)
 7月  8日(新暦8月22日)・・・今町~高田 泊
 7月  9日(新暦8月23日)・・・高田(逗留)
 7月10日(新暦8月24日)・・・高田(逗留)
 7月11日(新暦8月25日)・・・高田~能生 泊
 7月12日(新暦8月26日)・・・能生~市振 泊
 7月13日(新暦8月27日)・・・市振~富山県・滑川

 昨年の話からします。
 昨年の9月と10月には山形県・温海から、新潟県での最初の宿泊地 中村(現・北中)、そして大沢峠、村上を訪ねました。

 温海の写真です。

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 もちろん芭蕉が温海で泊まった鈴木所左衛門の家は残っていません。芭蕉は温海から馬に乗って鼠ヶ関に向かいますが、曾良は温海温泉の湯本に立ち寄ってから後を追い、二人は中村で宿泊します。中村(現・北中)が芭蕉新潟県での最初の宿泊地になります。

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 上の写真は昨年9月に中村(現・北中)で撮影したものです。この案内表示は 1カ月ほどたって10月に再び訪れた時には、台風で壊れて撤去されてありませんでした。案内表示の道路を挟んだ斜め向かい側に芭蕉が宿泊したという家があります。

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 この小田屋という旅籠は、現在営業をしていません。明治になってからここに移転したようで、芭蕉が宿泊した旅籠の場所は明確には分かりません。(宿泊が小田屋であったという確証もないようです。)
 芭蕉は中村から大沢峠などを通り村上に入りますが、この道は昔の出羽街道にあたります。私は昨年10月12日に友人と二人で大沢峠(大沢~漆山神社)を往復しました。大沢峠は山道で歩くしかありません。距離は約3㎞で片道1時間ほどかかります。

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 大沢峠には、山賊が目の不自由な通りすがりの旅人から金品を奪った後、突き落として殺したという物騒な伝説のある崖・座頭落しがあります。

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 出羽街道とはいっても本当に山奥の道です。10月12日は小雨が降っていたこともあってか、往復する間に誰とも出会いませんでした。熊が出てきそうで怖かったので、笛を吹きながら歩きました。

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 漆山神社(矢葺明神)には次のような伝説があります。

 源義家前九年の役安倍氏を討ちに行く際、漆山神社で休憩し、この戦に勝利したら弓矢で屋根を葺くと祈願した。1062年戦に勝利した義家が舟で帰路につくと、漆山神社の沖で舟が動かなくなった。そこで義家は約束通り屋根を弓矢で葺き替えた。

 漆山神社は子宝・安産の神様として知られ、遠方からも参拝客が訪れるそうですが、とても小さな社でした。

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 社の背後には明神岩と呼ばれる高さ50mもある大きな岩が聳えています。

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 この明神岩は圧巻です。

 芭蕉は村上で旅籠・久左衛門に泊まります。 

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 旅籠・久左衛門跡に建っているのが井筒屋です。現在は鮭料理専門店で宿泊はできません。

 
 ここからやっと今回の旅行で訪れた市振・親不知・糸魚川・能生の話になります。

 芭蕉は「奥の細道」で次のように書いています。

 酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

 文月や六日も常の夜には似ず

 荒海や佐渡によこたふ天河

 越後路では実際に暑い中で雨の降る日が多く、芭蕉が「暑湿の労に神をなやまし」たのは確かなようですが、「病おこりて事をしるさず」は本当のことではありません。芭蕉は病気になってはいません。「此間九日」も前述したように15泊16日ですから、本当のことではありません。その上「一ぶり(市振)」を「越中の国(富山県)」と書いていますが、もちろん市振は越後の国(新潟県)です。市振の関所から1里ほど離れたところには、加賀藩の境関所があり、その関所を通った芭蕉が市振は越後の国であると知らなかったとは考えられません。なぜ「越中の国一ぶり」と書いたかについては諸説あるようです。

 さて私は今回の1泊2日の小旅行で、芭蕉奥の細道で歩いたのとは逆のコースで、富山県の境関所から新潟県の能生までを訪ねました。

 まず初めに富山県の境関所です。境関所は明治2年に廃止され、跡地は小学校になります。その小学校も廃校となって、現在は記念館が建てられ、大門が復元されています。

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 境関所から境川を渡り(現在は境橋が架けられている)市振の関所まではわずか3,4㎞です。

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  大正3年と9年の大火で、宿屋・関所などを焼き尽くし、市振には往時の関所の様子をうかがえるものは何もありませんが、市振小学校(現在は廃校)の校庭にある榎は関所の目印となっていた木のようです。

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 ただしこの榎の樹齢は250年くらいということなので、芭蕉が通った時にはこの木はなかったはずです。
 芭蕉は市振に1泊し、有名な「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」の句を詠みますが、泊まった宿が桔梗屋です。

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 桔梗屋は現存せず、この標識があるだけです。

 市振の町並みのある方から、8号線の下をくぐって反対側に行くと長円寺があります。長円寺には相馬御風が揮毫した「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」の句碑があります。

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 字を良く読み取ることができませんが、相馬御風記念館(糸魚川市役所の横)に展示されている書の字に似ているようです。(文字の配置は違っています。)

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 さて私の今回の小旅行の最大の目的は、親不知の海岸(絶壁の麓の波打ち際)まで行くことでした。親不知の海岸は浸食されて、今では歩けるところがほとんどなく、簡単に海岸に降りることができるところは1か所しかありません。

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 上図の8号線脇の「天険コミュニティ広場」に車を止めて、「波打ち際」と書いてあるところに下りていきます。

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 上の写真は海岸に下りる階段です。

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 風もほとんどない穏やかな日でしたが、相当に大きな波がありました。芭蕉が300年以上前にこの付近を通ったことは間違いありません。46歳(数え年)の芭蕉と41歳の曾良はどんな思いでここを歩いたのか。悠久の時の流を感じます。
 芭蕉奥の細道に「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば」と書いています。芭蕉は好天に恵まれて難なく親不知を通り抜けたようです。しかしいつ荒れてくるかと心配で急いで歩いたことでしょう。

 しばらく海岸にいてから階段を上り、海岸に下りる途中にある「親不知レンガトンネル」(670m)を歩きました。

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 前掲の図では分かりにくいのですが、親不知レンガトンネルは「親不知コミュニティロード」の地下をくりぬいて作ったトンネルです。1965(昭和40)年まで53年間汽車がこのトンネルを通っていたということです。
 親不知レンガトンネルを通り抜けて西坑口に出て、西側遊歩道を上り、親不知コミュニティロードを歩きました。
 眼前に広がる大海原は心を癒してくれます。

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 周囲を山に囲まれた地で生まれ育ち、今もそこに暮らす私は、時おり無性に海が見たくなります。この景色を眺めると、心が開かれていくようです。

f:id:chikaratookamati:20191019113916j:plain 大学1年生・19歳の時に、私は本(「世界の名著」)を買ってアダム・スミスの『国富論』を読みました。(本の表紙の裏に拙い字で日付が書いてありました。)アダム・スミスは1723年にスコットランドの小さな町・カコーディに生まれ、14歳で故郷を離れますが、43歳の時にカコーディに帰って『国富論』を執筆します。カコーディには「アダム・スミス小路」と名付けられた小路があるそうです。その小路の写真が本に載っていて、「人がやっと通れるくらいのこの小路は、海岸に通じている。スミスは、『国富論』の執筆に疲れると、この入口(左下)を通って、海辺の散策に出たという。」と、説明が書いてありました。この記述がなぜか私の心に残り、時折立ち止まっては海を眺め、思索にふけりながら海岸を散策しているアダム・スミスの姿が心に刻まれました。心が委縮してくると、本の写真、記述を思い出して、無性に海を見たくなるのです。

 1日目の観光はここで終わりにして、親不知に建つ「親不知観光ホテル」に泊まりました。温かいおもてなしと美味しい料理のとてもいいホテルでした。

 翌日はまず糸魚川を訪ねました。芭蕉は能生から市振に向かう途中、糸魚川の荒屋町左五左衛門で休憩をしています。荒屋町は現在の新屋町ですが、左五左衛門という家はありません。芭蕉糸魚川は通過しているだけですから、他に糸魚川芭蕉の足跡をたどれる所はありません。
 私たちはフォッサマグナミュージアムフォッサマグナパーク、相馬御風記念館に行きましたが、芭蕉奥の細道とは関係ないので、ここでは省略します。

 さて次に能生を訪ねました。
 芭蕉は高田を発ち、名立に泊まる予定でしたが、紹介状が届いていなかったため先に進み、夕暮れに能生に到着し玉屋五郎兵衛に泊まります。現在も玉屋五郎兵衛の子孫が旅館「玉屋」を営んでいます。

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 玉屋は場所を移しているので、芭蕉の時代はこの地ではなかったようです。

 今回の小旅行の最後に、玉屋から700mほど離れたところにある白山神社を訪ねました。白山神社は1000年以上の歴史のある神社です。

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 この建物は拝殿です。

 二の鳥居を入った左手に「越後能生社汐路の名鐘」の石碑が立っています。

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 この石碑には次のように書いてあります。

   越後能生社汐路の名鐘

 むかしより能生社にふしきの名鐘有 これを
 汐路の鐘といへり いつの代より出来たる事を
 しらす 鐘の銘ありしかと幾代の汐風に吹くされて
 見へさりしと 常陸坊の追銘とかや 此鐘汐の満
 来らんとて人さはらすして響こと一里四面 さる故に
 此浦は海士の児まても自然と汐の満干を知り
 侍しに明応の頃焼亡せり されともその残銅
 をもつて今の鐘 能登国中居浦鋳物師
 鋳返しけるとそ 猶鐘につきたる古歌なと
 ありしといへとも誰ありてこれを知る人なし

  曙や霧にうつまくかねの声    芭蕉

 源義経は奥州下向の途次、白山神社に立ち寄って武運長久を祈った。その際に同行の常陸海尊が、無名の鐘に「汐路の鐘」と追銘した。この鐘は潮の干満によってひとりでに鳴るという不思議な鐘だった。この話を聞いた芭蕉がこの文を書き、句を詠んだということです。汐路の鐘は碑文中にあるように明応6(1497)年に焼け、明応8年に残銅を使って造り直されています。芭蕉はこの造り直された鐘の音を聞いたと思われます。しかし鐘銘に延宝8(1680)年に大雪のため破損し、元文5(1740)年に修繕したとあることを考えると、芭蕉が能生の地を訪れたのは1689年のことですから、実際に鐘の音を聞いたかどうか疑問になります。この汐路の鐘はさらに明治になると廃仏毀釈の嵐の中で大破され放置されたのち、秋葉神社に安置され、戦時中の昭和17年に供出除外物件と認定されて供出を免れ、現在は宝物殿に壊れた形のまま展示されています。

 さらに数奇な運命をたどったのが、「越後能生社汐路の名鐘」の石碑それ自体です。この石碑は岡本五右エ門という人が文政5(1822)年に建立したものですが、(芭蕉の真蹟を村田百畦が所蔵していたが、文政9年の能生町大火で失われた)廃仏毀釈により神社から岡本家前庭に移されます。その岡本家が没落して、明治16(1883)年に直江津五智「清水家旅館」に売却されます。後にこの旅館は高田市(現・上越市)山岸家の別荘となり、大正15年に山岸家より神社に返還奉納され、現在の地に設置されることになったということです。

 よく下調べをして、今度は出雲崎辺りに行って、芭蕉の足跡を訪ねてみたいと思います。