雪国・十日町から ちからのブログ

豪雪地に暮らす思いとその自然について綴ります

酷暑とコロナ

 昨日、三条市で39.1℃を記録しました。これは国内1位の暑さです。2位は寺泊(長岡市)で38.8℃、3位は長岡市で38.2℃。全国10位までの1~7位と9位を新潟県内8観測地点が占めました。新潟県内はどこも酷暑で十日町も例外ではありません。
 このところ早朝に草取りをしている妻が、いつもなら花や草の葉に露が降りているのに、昨日は初めて降りていなかった、と言っていました。朝から太陽がぎらぎらと照り、土はカラカラに乾いています。
 こんな酷暑で水やりは欠かせませんが、我が家の作物は元気です。

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 左側はモロッコ豆にインゲン豆で、右側に見えるのがオクラです。オクラは暑さに強く、ますます元気です。豆類の収穫は少し減ってきました。

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 キュウリは2本しかありませんが、これは夕方に穫ったもので、朝にも5、6本は穫れました。しかし毎年のことですがキュウリは終わりが近づいてきました。ピーマンはどんどん元気になっていますし、ここにありませんが茄子もどんどん穫れています。廿日大根はアスパラ菜の収穫が終わったところに植えたものです。廿日大根が終わったら、白菜を植えようと思っています。三毛作です。廿日大根は収穫が早いので、つなぎに最適です。他には枝豆が育ち、美味しく食べていますし、スティックセニョールやモロヘイヤも穫れています。総じて我が家の作物は順調に育ってくれました。

 朝4時30分頃に布団に寝転んで蜩の声を聞き、夕方には畑で蜩の声を聞きます。蜩の声は農作業の疲れを癒してくれます。

 朝夕に蜩の声聞く豊かさよ       (ちから)

 今朝も寝床に蜩の声が聞こえてきました。


 ところで昨日、新潟県の新型コロナウィルスの感染者は61人でした。これは過去最高の人数です。
 菅総理は一昨日、重症患者・重症化リスクの高い人に確実に入院してもらえる病床を確保するために、それ以外の人は自宅での療養を基本とすると発表しました。
 新型コロナは指定感染症・2類相当で原則は入院です。感染者が増えたため、例外としてホテル療養、自宅療養を認めましたが、それを更にまた重症者以外は自宅で療養と変えました。入院基準の変更は極めて重要な運用の見直しですから、速やかに臨時国会を開いて議論するべきです。なぜ臨時国会を召集しないのか、甚だ疑問です。民意に背いています。
 どうして民主主義の国家で、こう民意を無視した政治が行われるのでしょうか。それはそもそも我が国が民主主義国家ではないからです。全成人に選挙権が与えられているだけでは、民主主義国家とは言えません。例えば議員になるにはジバン(地盤)・カンバン(看板)・カバン(鞄)が必要になるため、それを持っている世襲議員が多くなります。自民党の3割もが世襲の議員です。これでは有能で意欲のある人でも、なかなか政治家になれません。立候補できる人が世襲であり、その中から選ぶとしたら、もう民主主義国家の選挙とは言えません。
 世襲議員とは代々政治家であるです。政治家として活動する能力・意欲を持っていると、認められた人ではありません。我々国民が日々主権者である権利を行使しないでいるうちに、我が国から民主主義が衰退しているのです。
 ここで思い出されるのが政治学者・思想史家で戦後の民主主義思想を主導した丸山真男の、教科書にも掲載されて有名な「『である』ことと『する』こと」の次の言葉です。

 日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向って投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、いちじるしく共通する精神を読みとることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告になっているわけなのです。これは大げさな威嚇でもなければ教科書ふうの空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。 (岩波新書『日本の思想』・Ⅳ「である」ことと「する」こと P154~P155)

 我々国民は日々主権者である権利を行使しているでしょうか。このことでまず私の頭に思い浮かぶのが、菅総理の記者会見です。記者の質問にまともに答えず、はぐらかしておきながら、追加の質問を受け付けない。そんなルールを誰が作ったのでしょう。質問に答えていないなら、答えるように更に質問するのが当たり前です。追加の質問を受け付けないという民意を反映していない、主権者である国民の権利をないがしろにするルールをまず撤回させるべきです。記者会見に参加できる新聞社や報道機関などは、撤回しなければ会見を全員がボイコットするなどして孤立させ、総力を挙げて撤回させてほしいものです。こうした行動をとると「いまは民主主義の世の中だから」とか「日本は民主主義の国である以上、この秩序を破壊する行為は……」自動的に「反民主主義」のレッテルをはられてしまいがちですが、それは民主主義は日々つくられるのではなく既存の「状態」と考えているからです。民主主義は主権者である国民が、日々権力を行使することで成り立つものです。まともに答えない菅総理の会見を聞いて、総理の言葉に従おうという国民がどれほどいるでしょう。もう菅総理の会見を聞く気にさえならない人も多いはずです。菅総理の質問に対してはぐらかしごまかし、まともに答えようとしない(答える能力もない)行為が、新型コロナの感染拡大に悪影響を与えていることは間違いありません。
 そもそもこんな人がどうして総理になどなれたのでしょう。ここにも主権者である国民の民意は反映されていません。ただ二階幹事長が自分が幹事長にとどまるためと、安倍前総理が自分の不祥事を石破氏に掘り返させないために、都合の良い菅総理が誕生したのです。安倍前総理は息を吐くように嘘を吐き続けました。先日桜を見る会の前夜祭が不起訴不当になりましたが、現在の法では裁けないにしろ、前夜祭以上に悪質なのは国民のお金で買収行為を行ったことです。自分の選挙区の住民を800人近くも桜を見る会に参加させたのは、買収行為です。この行為を法で裁けないのは法の不備で、法が税金を使って買収行為をするなど想定していなかったからです。法が想定していなかったほどの悪質な行為にほかなりません。自分のお金で買収して辞任した菅原一秀氏の方が、よほど安倍前総理に比べれば罪は軽いと思います。
 桜を見る会の招待者名簿を廃棄したことは、臭いことに蓋をするための違法行為にほかなりません。そもそも桜を見る会は各界の功績、功労者を招き日ごろの労苦を慰労するための公式行事です。桜を見る会に招待されることは、叙勲を受けるのとほぼ同じで、名誉あることです。叙勲受章者と同じで、新聞に名前が載ってもいいことです。地方の新聞なら、桜を見る会に招待され参加した方の感想を載せることもあるでしょう。それほど名誉な招待者の名簿を隠すことが、どうして必要なのか。この桜を見る会に関しても、主権者である国民の知る権利はないがしろにされています。我々国民は桜を見る会だけでなく森友、加計そして河井克行・案里氏への国民の税金も含まれる1億5千万円もの選挙資金供与のことも忘れてはなりません。こうしたことに主権者である国民の知る権利を行使していく必要があります。行使していかなければ、どんどん国民の権利は失われてしまいます。
 コロナ禍にあって、国民を導けるほどの清廉でリーダーシップを持つ指導者がいないことが、日本の最大の不幸です。もしドイツのメルケル首相のような人が日本の総理なら、事態は変わっていたはずです。もう10年近くも安倍前総理や菅総理のような人が日本のトップに立っているので、トップが代われば民意が変わり、国民の行動が変わるなどということを想像することができないほどです。
 「政者正也。子帥以正、孰敢不正。」〔政は正なり。子(し)帥(ひき)ゐるに正を以(もつ)てせば、孰(たれ)か敢て正しからざらん。〕これは『論語』顔淵第十二の言葉ですが、「政治は正という意味です。自分が正しくなくては、人を正すことはできません。上に立つ者が率先して正しい行いをしたなら、世の中の誰が正しくないことをするでしょうか。これが政治というものです。」という意味です。安倍前総理や菅総理のような、嘘をつき、事実を隠蔽し、ごまかし続ける人にだけはなるな、としか子どもには言えないような人が、日本の指導者の地位にいることは不幸であり、恥ずかしく残念でなりません。
 いくら清廉な指導者でも間違えることはあります。間違いに気づいたら「過則勿憚改」〔過ちては則ち改むるに憚ること勿かれ〕、「過而不改、是謂過矣」〔過ちて改めざる、是を過と謂ふ〕。間違いを認めて、すぐに改める。そうするから「更也人皆仰之」〔更(あらた)むるや人皆之を仰ぐ〕。人々はさすがに立派な人だと仰ぎ見て感服するのです。その反対が「小人之過也必文」〔小人の過や必ず文(かざ)る〕です。小人は過失をすると、いろいろと言い訳を言い、弁解します。小人の安倍前総理は周囲の人にまで嘘をつかせて弁解した上に、挙句の果ては政権を投げ出し、これも小人の菅総理は批判を一切受け入れず、国民を説得しようともしません。さらには米紙ウォールストリート・ジャーナル日本版のインタビューで、オリンピックを「やめることは一番簡単なこと」「挑戦することが政府の役割」などと国民の心を逆なですることまで言う始末です。両人はどうしようもない小人です。指導者のありよう、政治家のありようは二千数百年も前の『論語』に皆書かれています。
 菅氏が総理になった時、日刊スポーツ(2020.9.3)は「法政夜間部を卒業」と報じ、産経新聞(2020.9.3)も「出身地の秋田から集団就職で上京し、段ボール工場での勤務を経て、小此木彦三郎元通産相の秘書や横浜市議を経た苦労人」と書きました。これは菅氏のHPに「集団就職」と書いてあったことを、鵜呑みにして記事にしたもののようです。「集団就職」とは中学卒業後に国鉄の仕立てた就職列車に乗り、上京して就職することですが、貧しくて「集団就職」した人が翌年に大学に入学するなどあり得ません。菅総理のHPでは、今は「集団就職」としていたところを、「家出同然で」と書き換えているようです。もちろん菅氏は法政大学の夜間部卒業ではなく昼間部を卒業しています。私の友人も菅総理は夜間部を卒業したと思い込んでいました。
 私は菅氏が総理となった当初から、自分を貧しい田舎から上京し総理となった苦労人に見せかけようと、「集団就職」したなどと嘘をついていたことに不信感を抱いていました。(確かに安倍前総理に比べれば苦労人でしょう。)苦労人に仕立てたマスコミの罪も非常に大きいと思います。そもそも官房長官時代に「その指摘は当たらない」とばかり言って質問にまともに答えようとしない菅氏を、マスコミが鉄壁などと持ち上げていたことが大きな間違いです。なぜ官房長官の会見で記者は徹底的に質問しないのか、質問に答えないなら次々と追加質問をするのが当然のことです。それを許さないとすれば、それは主権者である国民の知る権利の侵害です。主権者の権利を行使して、官房長官の会見のありようも変えるべきです。
 もう二度と安倍氏や菅氏のような輩が、総理はおろか国会議員になどにもなれないような民主主義の国に日本がなってほしいと思います。
 小さなことでも主権者に与えられた権利を行使していきたいものです。