9月16日~17日に弥彦、寺泊、出雲崎を訪ねてきました。
芭蕉は元禄2年(1689年)の奥の細道の旅で、7月4日(新暦8月18日)は朝弥彦を発ち、出雲崎に泊っています。ご存知の通り「奥の細道」にはこの辺りのことは何も書いてありませんが、随行した曾良の日記には次のように書いてあります。
四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立。弘智法印像レ拝。峠ヨリ右ヘ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二、三町行テ、最正寺ト云所ヲノズミト云浜ヘ出テ、十四、五丁、寺泊ノ方ヘ来リテ左ノ谷間ヲ通リテ、国上ヘ行道有。荒井ト云、塩浜ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。
七月四日快晴。三日間とも東北の風が吹く。午前七時ごろ、弥彦を出発する。弘智法印像を拝むため、峠(猿が馬場)から二㌔ほど行く。谷間の中に森が有り、お堂が有り、像が有る。最正寺(西生寺)から野積の浜に出て、さらに千四、五百㍍寺泊寄りの、左の谷間を通って行くと国上山へ行く道があった。荒井(荒谷)という塩の製造浜からは、四㌔ほどある。寺泊からは、渡部という所を通って行く道がある。寺泊からは(国上寺が)後の方角になり、やはり四㌔ほどある。その晩は午後三時ごろ、出雲崎に着いて宿泊した。夜中、雨が強く降った。
芭蕉と曾良は前日弥彦に着くと、宿を取り、その後すぐに弥彦神社に参詣しています。現在の弥彦神社は、明治45年(1912)に焼失した社殿を大正5年(1916)に再建したもので、芭蕉が訪れた当時の形ではありませんし、弥彦では芭蕉がどこに泊ったかも分かっていません。 弥彦の社殿を拝んでもさほど感動がなかったらしく、曾良の日記にも何も感想が書かれていません。
弥彦神社の隣の宝光院に、芭蕉の句碑があるというので行ってみました。
「荒海や・・・」の句は、もちろん弥彦で詠まれたものではありません。宝光院には婆々杉という大きな杉の木があります。奥の細道とは関係ありませんが見てきました。
(婆々杉のいわれについては、ここでは書きません。)
宝光院に参詣した後、弥彦神社にお参りし、猿が馬場峠に向かいました。猿が馬場峠は弥彦スカイラインを上って、スカイラインの道と西生寺に行く道とが分かれるあたりのようですが、標識が見つかりませんでした。(標識などないのかもしれません。)せっかくなので弥彦山に上ってみました。
頂上からの眺めです。
佐渡が見えます。
絶景でした。芭蕉は登っていませんが、頂上まで行ってみた方がいいと思います。
分かれ道まで引き返し、西生寺を訪ねました。西生寺は実に立派なお寺でした。(芭蕉が訪れた当時の様子がどうなのかは分かりません。)
今回は弘智法印即身仏を拝みませんでしたが、大きな弘智法印の像が立っていました。
大銀杏も有名のようです。
芭蕉の句碑も立っています。
「文月やからさけおがむのずみ山」の句はどうも芭蕉の句ではないようです。(「芭蕉句鑑」に コウチ法印の霊地にて みな月やから鮭拝む野栖山 とある。みな月(六月)では芭蕉が訪れた月に合わないので文月にしたものか。)
西生寺からは野積の集落が良く見えます。
上の写真の中央に見える道は何度もと通ったことがありますが、上から眺めるのは初めてです。
西生寺から野積に下り、寺泊方面に向かいました。寺泊への途中に大河津分水がありますが、もちろん芭蕉の頃にはなかったものです。(大河津分水は明治42年(1909)に本格的な工事が始まり、大正11年(1922)に通水、大正13年に竣工式が行われた。)曾良の日記には国上山に行く道のことが書いてありますが、芭蕉たちは国上山には行ってはいないようです。
寺泊で芭蕉が何を見たかは全く分かりません。寺泊は現在は魚の市場通り(魚のアメ横)で有名ですが、旧道に入ると趣が一変します。道の両側に家がありますが、山側に立つ家の、さらに奥の山の斜面には民家はなく、ほとんど全てが神社かお寺です。(これは出雲崎も同じです。)これほどに神社とお寺が多いのにはびっくりします。私は愛宕神社の初君の歌碑と聚感園、それに日蓮聖人獅子吼の像を訪ねました。
愛宕神社です。
この神社の写真の左側の方に、初君の歌碑があります。
この案内板で分かるように、この歌碑は二代目で、初代の歌碑は聚感園にあります。しかし二代目のこの歌碑も読みにくくなったので、三代目の歌碑が作られ、その歌碑も聚感園にあります。
聚感園です。
聚感園は、豪族・五十嵐氏の邸宅跡を公園にしたものです。佐渡に流され、佐渡でなく亡くなった順徳天皇の行在所跡があります。
前述したように、初代の初君の歌碑も三代目の初君の歌碑も聚感園にあります。
次に日蓮聖人獅子吼の像です。
寺泊には、良寛(1758~1831)と関係のあるお寺もあります。そこも訪ねましたが、ここには書きません。
この日(16日)は出雲崎の良寛堂近くの割烹旅館 山﨑に泊りました。色々なところを訪れましたが、今回の旅行で一番印象に残ったのはこの山﨑の女将さんのお話しです。山﨑は戦前は遊郭だったということです。今も建物にはその面影が残っています。旅館になってからは、俳人の加藤楸邨や作家の瀬戸内寂聴、画家の川端龍子や棟方志功など多くの文人や画家が宿泊しています。川端龍子の「夕茜 出雲崎展望」(新潟県立近代美術館所蔵)は、この山﨑で描かれたということです。田中角栄もたびたび訪れたそうです。今は良寛や芭蕉を訪ねて、スイスやドイツからも来る人がいるとのことです。女将さんは俳句を詠む方で、女将さん直筆の色紙が飾ってありました。山﨑さんはコロナで今は一日一組しかお客を泊めていないとのことでが、こういうレトロな旅館に偶然にも泊まって、思いがけず楽しいお話を聞くことができました。料理も大変おいしく、大満足でした。
写真は山﨑の部屋から見えた夕景です。
17日は出雲崎を散策しました。良寛堂、良寛記念館、良寛と夕日の丘公園、芭蕉園、光照寺、代官所跡、獄門跡、道の駅・越後出雲崎天領の里の天領出雲崎時代館などを訪れ、帰りには国上山(くがみやま)に上り、国上寺(こくじょうじ)や五合庵も訪ねました。ここでは良寛関係の場所は省き、芭蕉園のことだけ書きます。
芭蕉園は良寛の生家橘屋と権力争いをした敦賀屋の跡地にあります。
案内板にあるように、芭蕉が一泊した大崎屋は斜向かいにありました。芭蕉園には「銀河の序」の碑が立っています。
この「銀河の序」の碑については、8月12日の松尾芭蕉「銀河の序」と大星哲夫(より良き教育を求めて・ちからのブログ)をリンクからご覧ください。「銀河の序」は「奥の細道」の本文にあってもおかしくない名文です。「奥の細道」の本文であれば、もっと出雲崎の地を訪れる人が多くなったのにと思うと、残念です。
出雲崎は良寛の生誕の地ですから、良寛に関係するものが多いのは言うまでもありません。最後に良寛が18歳の年に剃髪し、玉島円通寺に修行に出るまで4年間過ごした光照寺での写真を載せて、このブログを終わりにします。
秋海棠の花がきれいに咲いていました。