昨日、山に入って、キノコを少しですが採りました。今年は初雪もまだですし、霜の降りた寒い朝もないので、キノコが凍ることがなく、タイミングさえ良ければ質のいいキノコが採れます。
ナメコが出ていました。
天然もののナメコは、このくらいの大きさのものがいいと思います。
ムキタケも出ていました。
この大きさになるまで、2週間もかかりました。なかなか大きくなりません。
これもムキタケです。
これはちょうどいい大きさです。
ヒラタケも出ていました。
すこし小さいくらいですが、このくらいのものが一番おいしいようです。
昨晩は妻がナメコ、ムキタケ、ヒラタケとクリタケを入れたけんちん汁にしてくれました。鍋に入れてもよく食べます。
昨日、このところ読んでいた、『宇治拾遺物語』を読み終わりました。『宇治拾遺物語』には、第2段に「丹波の国篠村、平茸生ふる事」という平茸の話があります。
これも今は昔、丹波の国篠村といふ所に、年ごろ、平茸やるかたもなく多かりけり。里村の者、これを取りて、人にも心ざし、またわれも食ひなどして、年ごろ過ぐるほどに、・・・
ある夜、村人の夢に頭髪を少し伸ばした二、三十人ほどの法師が出てきて、篠村から他所に退出するので挨拶にきた、と話をします。村人には法師の言うことが、どういう意味なのかさっぱり分かりません。その年が暮れ、次の年の九、十月になります。いつもなら出るはずの平茸が全く出ません。平茸は「不浄説法する法師、平茸に生まる」(不浄の身で仏法を説くと平茸に生まれ変わる)ということで、不浄説法した法師の生まれ変わったものだった、という話です。
どうして平茸に生まれ変わるのか、法師と平茸の関連性は全く分かりませんが、おかしな話の種として好まれたようです。
『宇治拾遺物語』で、私が面白い(悲しい)と思った話は、第148段の「高忠の侍、歌詠む事」です。
高忠のもとで、昼夜真面目に働いている侍がいました。雪の降る日に、その侍が粗末な服を身に着けているだけの裸のような姿で、寒さに震えながら掃除をしていました。それを見た高忠がどうしてそんな恰好をしているのか、その「裸なるよしを詠め」と言います。侍は、
裸なるわが身にかかりる白雪はうちふるへども消えせざりけり
と詠みます。高忠はたいそうその歌をほめ、着ていた服を脱いで侍に与えます。北の方もかわいそうに思って服を与えます。
その後、侍はいただいた服を着て寒さをしのいだとか、売って暖かい服に替えたというのならありきたりですが、その侍はそうはしません。侍はいただいた服を持って、貴い聖のもとに行き、身の不幸、年を追ひてまさる。この生のことは、益もなき身に候ふめり。(わが身の不幸は、年を追って増えていきます。この現生では役にも立たない身であるようです。)法師になりたいと思っていましたが、布施に差し上げるものがないので、今までお願いすることができませんでした。どうかこの布施を受け取って、私を法師にしてください、とお願いします。聖はとても感心して、侍を法師にします。その後、法師は「そこより、行く方もなくて、失せにけり。あり所も知らずなりにけるとか。」
という話です。関心が湧いたらお読み下さい。