雪国・十日町から ちからのブログ

豪雪地に暮らす思いとその自然について綴ります

山田康弘先生(国立歴史民俗博物館 教授)講演会

 昨日は午前中、久しぶりに晴れました。午後に講演を聴きに行く予定だったので、無精で普通は午前中には畑仕事はしないのに、午前中に畑に出て白菜を24株植えました。雨であまり鳴かなかったツクツクボウシがしきりに鳴き、久しぶりの陽射しがとても心地よく感じられました。
 朝にはこんな美しい情景を目にすることができました。

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 以前にも紹介した、水滴の付いたアスパラガスです。アスパラガスは赤い実をつけ、一部が紅葉しています。着実に季節は進んでいます。

 

 午後、十日町市の文化ホール・段十ろうで、山田康弘氏の「最新の研究からわかった縄文時代」という演題の講演会がありました。

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 内容を一つだけ紹介すると、教科書では一般的に縄文時代は今から12000年~2300年前と記述されているが、最新の研究から16500年~3000年前とする説が有力になってきたということです。年代は炭素14で調べるが、これまではそのためには100グラム、200グラムの試料が必要であった。100グラム・200グラムとは相当の量で、試料(土器や骨など)を壊さなければ得られない量である。もちろん試料を壊すわけにはいかないから、正確に年代を測定することが難しかった。それが新しいAMS(加速器質量分析)という方法で、微量の試料で正確に年代を測定できるようになった。この分析法で土器についたススなどから年代を測定すると、16500年前には土器が作られていたことが分かり、縄文時代は4500年も遡ることになったというのである。(土器が広範囲で作られるようになったのは15000年くらい前なので、縄文時代の始まりを15000年前とする説もあるという。)

 学問は急速に進歩し、歴史はどんどん書き換えられていきます。同じようなことは国語関係にもあります。
 例を挙げると、「徒然草」の筆者・兼好法師についてです。兼好は吉田兼好とも言うと学校で習い、今でもそう思っている方が多いと思う。しかし兼好は吉田という姓であったことはなく、兼好の死後150年ほどしてから、吉田兼倶(1435~1511)という者が縁もゆかりもない兼好を、自家の系譜に取り込んだ捏造から生まれた誤りであるということが明らかになった。兼好は卜部兼顕(うらべかねあき)の子で、朝廷に仕え、六位蔵人、左兵衛佐となったとされるが、六位蔵人、左兵衛佐になったことはない。兼倶が自分の息子を六位蔵人につかせるため、当時知名度が高くなっていた「徒然草」の筆者・兼好を自家の系譜に取り込んで、自分の先祖には兼好という六位蔵人であった者がいるというデタラメナ文書を作成して提出した。そこから吉田兼好という名が広まってしまったのである。

 他の例も挙げると、東日本大震災で被害を受けた宮城県名取市閖上の「閖」という字があります。この「閖」という字に関しては、次のような故事があることはご存知の人も多いと思います。

 仙台藩主・伊達綱村が大年寺の落慶に参拝しての帰途、山門の内から見えた波打つ浜を「あれは何というところか」と尋ねたところ、近侍が「『ゆりあげはま』でございます」と答えた。すると今度は「文字はどう書くのか」と言う。近侍が「文字はありません」と答えると、綱村は「門の内から水が見えるから、今後は門の中に水を書いて閖上と呼ぶように」と言い、仙台藩専用の「閖」という文字ができた。

 私はこの「閖」という字を、東日本大震災の時に初めて知り、上記の故事があるということを聞いて、「閖」という字をすっかり国字(日本でできた漢字)であると信じてしまいました。それがしばらくすると「閖」という字は中国にもあることが明らかになったのです。本当に学問の進歩はすさまじい。

 

 9月4日には、段十ろうで三橋貴明氏の「『国の借金』問題の真実とは」という講演会があります。十日町では貴重な勉強のできるチャンスなので、それにも出てみようと思います。