雪国・十日町から ちからのブログ

豪雪地に暮らす思いとその自然について綴ります

唐招提寺障壁画展

 昨日、長野市の長野県立美術館で開催されている、東山魁夷唐招提寺御影堂障壁画展を見に行ってきました。唐招提寺の障壁画を一度は見たいと思っていたので、天気のいい昨日、思いきって行ってみました。

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 十日町からは高速道路を使って2時間ちょっとで、善光寺の駐車場に着きました。美術館はそこから歩いて5分ほどです。障壁画・「濤声」「山雲」「揚州薫風」「桂林月宵」「黄山暁雲」はどれも圧巻でしたが、中でも彩色されている「濤声」と「山雲」に、やはり一番感銘を受けしました。お客さんは多く入ってはいましたが、それでも上段の間床及び違棚の貼付絵(「山雲」の一部)の前には誰もいなかったので、妻と私の二人だけで見ているような気持ちになって、ゆったりと鑑賞することができました。「濤声」と「揚州薫風」は一続きで展示されていましたが、「山雲」「桂林月宵」「黄山暁雲」は会場のスペースのためなのか、部分部分に分けられて展示されていたので、繋がりがはっきりぜず、全体を掌握できないところがあったのは残念でした。

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 揚州と言うと、私には揚一益二(揚州が第一、益州成都)が第二)の諺が示すように、中国の南北を結ぶ大運河の要衝として各地の物産が集まり、また海外との貿易港としても栄えた大都市というイメージがあります。また杜牧の詩「遣懐」に楚腰繊細掌中軽(楚の宮女のようなすらっとした腰の女たち、その繊細な身体は、あたかも手のひらの上で舞えるかの如く軽やかであった)とあるように、美女の多くいる商人の町というイメージでもあります。鑑真和上が住職だった大明寺は揚州にありました。鑑真和上はお酒や女性とは無縁だったと思われるものの、「揚州薫風」は私の抱く揚州のイメージとは遠いものでした。(楚腰繊細掌中軽は、春秋時代、楚の霊王が腰の細い美人を愛したので、宮女たちが寵を得るために食を減じて痩せようとし、中には餓死してしまった女性もいたという故事と、前漢の成帝に寵愛された趙飛燕が掌の上で舞うことができるほど身軽であったという故事を踏まえたもの。)

 善光寺は何度来ても気持ちのいいところです。

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 昼食は門前の店で天丼を食べました。味はそれなりでしたが、天婦羅が茄子、南瓜、イカ、エビのたった4つだけで、それがどんぶりの真ん中にのっていて、周りにご飯がよく見えます。天丼といえばご飯が見えないほど、どんぶりに天婦羅が盛り付けられているのが普通です。天婦羅がたった4つだったのには、呆れました。こんな天丼は見たことがありません。それで値段は990円でした。良心的な商売はできないものでしょうか。なぜこんなものを出すのでしょうか、店賃が高いせいでしょうか。考えてしまいます。善光寺の評判を落としかねません。もっといいものを出しましょう。

 話は換わりますが、11月25日に山に入ってきました。4日前にはまだ小さかったナメコ、クリタケは程よい大きさになっていました。

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 残念なことに、1箇所のナメコを採られていましたが、他にもちょうどよいナメコを見つけました。

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 家に帰ってナメコはきれいにごみを取り除きました。

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 もう一、二度は山に入ってみたいと思っています。