雪国・十日町から ちからのブログ

豪雪地に暮らす思いとその自然について綴ります

椎谷観音、38年ぶりの御開帳

 柏崎市椎谷の椎谷観音堂で38年ぶりに本尊・正観世音菩薩像が、5月26日から31日までの6日間御開帳されています。住職1代に秘仏の御開帳は1回限りと決まっています。椎谷は出雲崎から柏崎に行く途中にあります。芭蕉奥の細道の旅で近くを通っているので、ぜひ行ってみたいと思っていました。新潟日報で御開帳を知り、参拝してきました。

 観音像は2体あり、右の観音像が佐渡からお帰りになった観音様で、左の観音像が留守中御守りくださった観音様のようです。右の観音像はお顔などが焼けているというご住職のお話しでしたが、近くで拝見したものの良く見えませんでした。上の写真で2本蝋燭が点されていますが、その奥に見えるのが観音様です。

 椎谷観音堂の縁起は簡潔に述べると次の通りです。
 今から1200年ほど前、椎谷の海に毎夜不思議な光が現れました。村人が何の光かと思い、網を下ろしてみると正観世音菩薩の御像が上がりました。村人は山の上に立派な御堂を建て、その御像を安置しました。
 それから800年余の寛永元年(1624年)に御堂が焼けた時、村人は火を消し御像を探しましたが見当たりませんでした。
 ちょうどこの時、佐渡の宿根木で丸山治久という人が男の子を授かりました。忠三郎と名付け大切に育てました。忠三郎は2、3歳で読み書きができるほどの天才児でしたが、7歳で眠るように息を引き取りました。葬儀を営むときに母親がもう一目見ようと御棺の蓋を開けると、影も形もありませんでした。

 忠三郎が亡くなった前夜、椎谷観音堂の住職の夢に観音様が現れ、「我は佐渡の丸山治久の切なる願いに答えて、忠三郎となって生まれたが、今又帰る時節が来たので当山に帰るであろう」というお告げがありました。翌日山に登り御堂を開いてみると、本尊様がお帰りになっていました。

 つまり忠三郎に生まれ変わった観音像が、右の観音様ということです。

 また椎谷観音堂の隣には、香取神社があります。

 香取神社は椎谷藩四代藩主・堀式部少輔直宥(なおさだ)が建立したものです。元禄11年(1698年)に上総・下総・武蔵の地に領していた四千五百石が越後の蒲原・三島の地の四千五百石へ替地となり、椎谷藩・堀家が既に越後に領していた五千五百石と合わせて一万石の全てが越後に集約されました。この時椎谷藩の鎮護・武運祈願として旧領内・下総の香取神社を勧請して建立しました。こんな歴史があったとは知りませんでした。