雪国・十日町から ちからのブログ

豪雪地に暮らす思いとその自然について綴ります

稲刈り進む、大文字草が満開

 稲刈りも終盤になっています。今日は久しぶりに(10月になって一日中晴れていたのは今日が初めてのように思います)いい天気でした。我が家の前の田んぼは、今日稲刈りでした。

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 いつもの年なら、もう終わったのか、と思うほどすぐに稲刈りが終わるのですが、今年は前のブログに書いたように、稲が倒れていてとても時間がかかっていました。稲の生育する時期に雨が長く降り、雨が降らなくなると猛暑になって、稲が成長しすぎたことが、倒れてた原因のようです。

 我が家の大文字草がほぼ満開になりました。

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 去年の倍くらいに増えました。去年も少し大きな鉢に植え替えましたが、また株が大きくなったので、さらに大きな鉢に植え替えなければならないようです。増えて困るので、近所の方に数鉢あげようと思っています。
 手を掛ければどんどん増えます。しかしこれ以上増えても冬の保管場所がありません。捨てるのは花がかわいそうなので、もらってくれる方にあげたいと思います。大切に育ててほしいものです。

キノコ狩り始まる

 山に入ってきました。マイタケが採れました。

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 実は9月27日と30日にも、少しですがマイタケを採りました。今日は30日にまだ小さかったものを採りに行って、これだけの収穫になりました。

 上の写真を見ると分かるように、左の白っぽいマイタケと右の黒っぽいマイタケがあります。

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 別々のミズナラの木に出ていました。味は変わりはありません。夕食にマイタケのいっぱい入ったけんちん汁をしてもらいました。マイタケのいいだしが出て、とても美味でした。天然マイタケは味だけでなく、噛むときには弾力があって、べちゃっとした栽培ものとは全く別物です。
 まだ小さくて、少し採り残したのがあるので、3日くらいたったらまた採りに行こうと思います。

  大文字草が咲き始めました。

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 まだほんの咲き始めです。
 大文字草は増えて、十数鉢にもなりました。今年は日除けの棚を作るなどして、昨年より手をかけました。これからはブログにきれいに咲いた大文字草の写真を載せたいと思っています。ご覧ください。

「奥の細道」を訪ねて・・弥彦、寺泊、出雲崎

 9月16日~17日に弥彦、寺泊、出雲崎を訪ねてきました。

 芭蕉は元禄2年(1689年)の奥の細道の旅で、7月4日(新暦8月18日)は朝弥彦を発ち、出雲崎に泊っています。ご存知の通り「奥の細道」にはこの辺りのことは何も書いてありませんが、随行した曾良の日記には次のように書いてあります。

 四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立。弘智法印像拝。峠ヨリ右ヘ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二、三町行テ、最正寺ト云所ヲノズミト云浜ヘ出テ、十四、五丁、寺泊ノ方ヘ来リテ左ノ谷間ヲ通リテ、国上ヘ行道有。荒井ト云、塩浜ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。

 七月四日快晴。三日間とも東北の風が吹く。午前七時ごろ、弥彦を出発する。弘智法印像を拝むため、峠(猿が馬場)から二㌔ほど行く。谷間の中に森が有り、お堂が有り、像が有る。最正寺(西生寺)から野積の浜に出て、さらに千四、五百㍍寺泊寄りの、左の谷間を通って行くと国上山へ行く道があった。荒井(荒谷)という塩の製造浜からは、四㌔ほどある。寺泊からは、渡部という所を通って行く道がある。寺泊からは(国上寺が)後の方角になり、やはり四㌔ほどある。その晩は午後三時ごろ、出雲崎に着いて宿泊した。夜中、雨が強く降った。

 芭蕉曾良は前日弥彦に着くと、宿を取り、その後すぐに弥彦神社に参詣しています。現在の弥彦神社は、明治45年(1912)に焼失した社殿を大正5年(1916)に再建したもので、芭蕉が訪れた当時の形ではありませんし、弥彦では芭蕉がどこに泊ったかも分かっていません。 弥彦の社殿を拝んでもさほど感動がなかったらしく、曾良の日記にも何も感想が書かれていません。

 弥彦神社の隣の宝光院に、芭蕉の句碑があるというので行ってみました。

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 「荒海や・・・」の句は、もちろん弥彦で詠まれたものではありません。宝光院には婆々杉という大きな杉の木があります。奥の細道とは関係ありませんが見てきました。

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(婆々杉のいわれについては、ここでは書きません。)

 宝光院に参詣した後、弥彦神社にお参りし、猿が馬場峠に向かいました。猿が馬場峠は弥彦スカイラインを上って、スカイラインの道と西生寺に行く道とが分かれるあたりのようですが、標識が見つかりませんでした。(標識などないのかもしれません。)せっかくなので弥彦山に上ってみました。
 頂上からの眺めです。

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 佐渡が見えます。

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 絶景でした。芭蕉は登っていませんが、頂上まで行ってみた方がいいと思います。

 分かれ道まで引き返し、西生寺を訪ねました。西生寺は実に立派なお寺でした。(芭蕉が訪れた当時の様子がどうなのかは分かりません。)

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 今回は弘智法印即身仏を拝みませんでしたが、大きな弘智法印の像が立っていました。

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 大銀杏も有名のようです。

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 芭蕉の句碑も立っています。

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 「文月やからさけおがむのずみ山」の句はどうも芭蕉の句ではないようです。(「芭蕉句鑑」に コウチ法印の霊地にて みな月やから鮭拝む野栖山 とある。みな月(六月)では芭蕉が訪れた月に合わないので文月にしたものか。)
 西生寺からは野積の集落が良く見えます。

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 上の写真の中央に見える道は何度もと通ったことがありますが、上から眺めるのは初めてです。

 西生寺から野積に下り、寺泊方面に向かいました。寺泊への途中に大河津分水がありますが、もちろん芭蕉の頃にはなかったものです。(大河津分水は明治42年(1909)に本格的な工事が始まり、大正11年(1922)に通水、大正13年に竣工式が行われた。)曾良の日記には国上山に行く道のことが書いてありますが、芭蕉たちは国上山には行ってはいないようです。

 寺泊で芭蕉が何を見たかは全く分かりません。寺泊は現在は魚の市場通り(魚のアメ横)で有名ですが、旧道に入ると趣が一変します。道の両側に家がありますが、山側に立つ家の、さらに奥の山の斜面には民家はなく、ほとんど全てが神社かお寺です。(これは出雲崎も同じです。)これほどに神社とお寺が多いのにはびっくりします。私は愛宕神社の初君の歌碑と聚感園、それに日蓮聖人獅子吼の像を訪ねました。

 愛宕神社です。

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  この神社の写真の左側の方に、初君の歌碑があります。

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 この案内板で分かるように、この歌碑は二代目で、初代の歌碑は聚感園にあります。しかし二代目のこの歌碑も読みにくくなったので、三代目の歌碑が作られ、その歌碑も聚感園にあります。

 聚感園です。

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 聚感園は、豪族・五十嵐氏の邸宅跡を公園にしたものです。佐渡に流され、佐渡でなく亡くなった順徳天皇の行在所跡があります。

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 前述したように、初代の初君の歌碑も三代目の初君の歌碑も聚感園にあります。

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 次に日蓮聖人獅子吼の像です。

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 寺泊には、良寛(1758~1831)と関係のあるお寺もあります。そこも訪ねましたが、ここには書きません。

 この日(16日)は出雲崎良寛堂近くの割烹旅館 山﨑に泊りました。色々なところを訪れましたが、今回の旅行で一番印象に残ったのはこの山﨑の女将さんのお話しです。山﨑は戦前は遊郭だったということです。今も建物にはその面影が残っています。旅館になってからは、俳人加藤楸邨や作家の瀬戸内寂聴、画家の川端龍子棟方志功など多くの文人や画家が宿泊しています。川端龍子の「夕茜 出雲崎展望」(新潟県立近代美術館所蔵)は、この山﨑で描かれたということです。田中角栄もたびたび訪れたそうです。今は良寛芭蕉を訪ねて、スイスやドイツからも来る人がいるとのことです。女将さんは俳句を詠む方で、女将さん直筆の色紙が飾ってありました。山﨑さんはコロナで今は一日一組しかお客を泊めていないとのことでが、こういうレトロな旅館に偶然にも泊まって、思いがけず楽しいお話を聞くことができました。料理も大変おいしく、大満足でした。

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 写真は山﨑の部屋から見えた夕景です。

 17日は出雲崎を散策しました。良寛堂、良寛記念館、良寛と夕日の丘公園、芭蕉園、光照寺代官所跡、獄門跡、道の駅・越後出雲崎天領の里の天領出雲崎時代館などを訪れ、帰りには国上山(くがみやま)に上り、国上寺(こくじょうじ)や五合庵も訪ねました。ここでは良寛関係の場所は省き、芭蕉園のことだけ書きます。

 芭蕉園は良寛の生家橘屋と権力争いをした敦賀屋の跡地にあります。

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 案内板にあるように、芭蕉が一泊した大崎屋は斜向かいにありました。芭蕉園には「銀河の序」の碑が立っています。

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 この「銀河の序」の碑については、8月12日の松尾芭蕉「銀河の序」と大星哲夫(より良き教育を求めて・ちからのブログ)をリンクからご覧ください。「銀河の序」は「奥の細道」の本文にあってもおかしくない名文です。「奥の細道」の本文であれば、もっと出雲崎の地を訪れる人が多くなったのにと思うと、残念です。

 出雲崎良寛の生誕の地ですから、良寛に関係するものが多いのは言うまでもありません。最後に良寛が18歳の年に剃髪し、玉島円通寺に修行に出るまで4年間過ごした光照寺での写真を載せて、このブログを終わりにします。

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 秋海棠の花がきれいに咲いていました。

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九月になりました

 今日から九月。今日はほぼ曇りの蒸し暑い一日でした。(ほんの一瞬雨がぱらつき、晴れることもありました。)
 今朝気づいたことですが、稲がいたるところで倒れています。

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 昨日の朝までは倒れていませんでした。昨日は午前中久しぶりの雨になりました。前回のブログ(8月19日)では、やっと朝から晴れたと書きましたが、それ以後昨日まで雨がほとんど降らず、猛暑が続き、土がカラカラに乾いていたので、昨日の朝の雨は野菜などには、恵みの雨になりました。土を十分に潤すほど降ったものの、土砂降りというほどではなかったと思うのですが、その雨のせいなのか今朝気づいたら、稲が倒れていました。どうしてこうなるのかは、私にはわかりませんが、雨が降るまでは全く倒れていなかったので、びっくりしました。

 猛暑、酷暑が続いていますが、我が家の野菜はまだ元気です。

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 上の写真は今日我が家の畑で採れたものです。茄子にオクラは、毎日10~15個くらいは採れます。インゲン豆、モロッコ豆、ピーマンも結構採れます。今日も3軒におすそ分けしました。とは言え昨日の朝まで全く雨が降らなかったので、心配になって、ここ3~4日は水をやっていました。茄子は下の草を取って、落ちた葉をどかしてから、十分に水をやりました。翌日、また水をやろうとして見ると、前日除いたはずの葉がたくさん落ちています。これまで茄子がこんなに葉を落としているとは気が付きませんでした。まだ我が家の茄子はいっぱい葉をつけていますが、こんなにも葉が入れ替わっていたとは驚きです。
 話は少しそれますが、早春に咲くオオイヌフグリは、いつ見てもかわいい花を咲かせていて、枯れた花は見たことがありません。オオイヌフグリの花は受粉が終わると一日で落ち、翌日には次の新しい花が咲いているのでいつもきれいなのです。毎日毎日オオイヌフグリの花は入れ替わっていたのです。植物写真家の埴 沙萌(はに しゃぼう)氏から学びました。こういうことはよほどよく観察しないと分かりません。

 雨が降らなかったので、雨好きの里芋は相当葉が枯れてしまいました。

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 もちろん里芋にも4~5日前から水をやっていましたが、もっと早くからやるべきでした。よその畑を見ると、どこの畑の里芋も結構枯れています。我が家と大差ないようです。

 昨日、胃カメラの検査を受けました。異常はなく、潰瘍性大腸炎ではありませんでした。(もっとも胃カメラですから大腸は調べていません。)ラサール石井氏の安倍首相辞意表明に対するツイートが話題になっています。批判する頓珍漢な人もいますが、私の感想も、望んでいたことだが、全く喜びも感慨もない。・・・記者会見はヌルく、まるで番記者と総理のお別れ会のようという石井氏のツイートと全く同じです。記者会見では公文書廃棄・改竄など十分に説明責任を果たしたかと訊かれ、安倍首相は十分かどうかは国民の皆様が判断されることと答えていました。国民が十分ではないと判断していることは世論調査から既に明らかなのに、この答弁では質問に対する答えになっていません。一事が万事、安倍首相の答弁はごまかしです。3年前の森友問題が発覚したときに辞任すべきでした。持病で辞任することは、私人としてみれば気の毒です。しかし安倍氏は首相です。首相である安倍氏には、ご苦労様でしたなどという気にはなりません。高千穂大学五野井郁夫教授言うように、安倍政権は「最低の最長政権」でした。
 次の首相には菅氏がなりそうです。菅政権は恐らく長続きはしないでしょう。というのも、菅氏は記者の質問に答えない、あるいは遮ることはできても(東京新聞の望月衣塑子記者の質問に対し、「あなたに答える必要はありません」と言い放って会見を打ち切ったことが象徴的)、安倍首相ほどごまかし、たぶらかしがうまくはないと思うからです。安倍首相のごまかし、たぶらかしの答弁はまさに天才的、天性のものです。そこだけは誰にも負けません。官房長官なら質問に答えないことができても、首相になったら質問に答えないわけにはいきませんから、菅氏は答弁に窮することでしょう。ずっと「批判は当たらない」と何百回も繰り返し、安倍首相のごまかしの片棒を担いできた菅氏は、安倍首相と同じ穴の狢です。菅政権は最低の短命政権になりそうです。

 政治は『論語』・顔淵第十二の「政者正也。子帥以正、孰敢不正。(政は正なり。子帥【ひき】ゐるに正を以てせば、孰【たれ】か敢て正しからざらん。)です。いつも正しくないことをしているから、安倍首相が何を言っても、その言葉は「またごまかしか、またでまかせか」と思われて、心に全く響かないのです。学校教育で道徳重視を打ち出している張本人が、道徳に反することばかりしています。将来、いやすぐにでも、道徳の授業で森友・加計・桜を見る会や今回の総裁選を取り上げてほしいものです。提出を求められたその日が、ちょうどシュレッダーにかける日だったなどという言い訳には、子どもたちも呆れることでしょう。党員投票を実施しない総裁選は、石破外しで、”いじめ”です。次は君だとほのめかして、前回総裁選出馬を見送らせておきながら、今回の総裁選で岸田支援を明確にしないのは、だまし討ちです。こんな道徳の授業にぴったりな、不道徳極まりない教材は他にありません。

 ラサール石井氏と私は共に昭和30年生まれです。その他にも共通点があり、石井氏には親近感を持っています。